茅ヶ崎の別荘を歩いてみませんか

『茅ヶ崎の別荘を歩いてみませんか』全回記録
目次(抄録)
  • (p.1-2) 『茅ヶ崎の別荘を歩いてみませんか』目次一覧
  • (p.11) 第一回(昭和60年5月9日)の記録:高浜緑地、えにしだ
  • (p.12) 第一回(続き):野中別荘、牛山別荘、岡崎別荘、純水館用地、土方別荘

  • (p.13) 第一回(続き):土方別荘、清浦別荘、大きくなった土方別荘
  • (p.14) 第一回(続き):大きくなった土方別荘、漁港道路、山崎別荘
  • (p.15) 第一回(続き):山崎別荘、火葬場の移転、墓参道路
  • (p.16) 第一回(続き):堀部別荘、茅ヶ崎の別荘とは、図書館にて、内田別荘
  • (p.17) 第一回(続き):内田別荘、岡崎別荘、川添隆行さんご自身のこと
  • (p.18) 第一回(続き):須田別荘、川上別荘・万松園
  • (p.19) 第一回(続き):川上別荘・万松園、清棲家教、山崎直胤、別荘がなくなっていくのは
  • (p.21) 第二回(昭和60年7月18日)の記録:鉄砲道
  • (p.22) 第二回(続き):佐竹義勝の別荘、美濃部坂周辺、市川段四郎の別荘
  • (p.23) 第二回(続き):赤十字 of 糸杉、十間坂・海岸通り、花房義質の別荘、美濃部達吉の別荘
  • (p.24) 第二回(続き):美濃部達吉の別荘、茅ヶ崎の別荘について
  • (p.31-32) 別荘リスト(中海岸・南湖地域)
  • (p.33) 第三回(昭和60年9月19日)の記録(その1):真崎の浜
  • (p.34) 第三回(続き):山階宮、高羽別荘、鐘紡屋敷、進経太、広田精一
  • (p.35) 第三回(続き):広田精一、瀬脇寿雅のこと、小島一族、池田宏の開発地
  • (p.36) 第三回(続き):池田宏の開発地、石川村、田畠氏
  • (p.37) 第三回(続き):田畠氏、南弘
  • (p.38) 第三回(続き):南(弥太郎)別荘、木越・柴野・竹橋3中将
  • (p.39) 第三回(続き):木越・柴野・竹橋3中将、柴野義広中将、竹橋尚文中将
  • (p.40) 第三回(続き):竹橋尚文中将、青山為太郎
  • (p.41) 第三回(続き):青山為太郎、中山喜久松、安東大将
  • (p.42) 第三回(続き):安東大将、福島大将
  • (p.43) 第三回(続き):福島大将、飯沼一省、九鬼別荘
  • (p.44) 第三回(続き):九鬼別荘、鐘紡屋敷?
  • (p.45) 第三回(続き):鐘紡屋敷?、大瀬甚太郎、河合辰太郎
  • (p.46) 第三回(続き):河合辰太郎、瀬脇家、尾上家のこと
  • (p.47) 第三回(続き):瀬脇家、尾上家のこと
  • (p.51) 第三回(続き):長野宇平治、坪井・馬場屋敷・牧野・石黒・仁井田・原口・小橋・大場・中泉、駐在所
  • (p.53) 第三回(昭和60年9月19日)の記録(その2):松樹園
  • (p.54) 第三回(続き):松樹園、山田復之助
  • (p.55) 第三回(続き):山田復之助、柳田別荘(直平、国男、為正)
  • (p.56) 第三回(続き):柳田別荘、岡崎文吉(工学博士)、1段歩=16銭
  • (p.57) 第三回(続き):1段歩=16銭、西村邸
  • (p.58) 第三回(続き):西村邸、別荘族と町政、南湖院と別荘
  • (p.59) 第三回(続き):南湖院と別荘、別荘値段
  • (p.60) 第三回(続き):別荘値段、別荘番
  • (p.61-63) 別荘リスト(代3回記録用)
  • (p.64) 第四回(昭和60年10月18日)の記録:岩本・伊藤
  • (p.65) 第四回(続き):岩本・伊藤、停車場裏道路、広田別荘も近代化
  • (p.66) 第四回(続き):広田別荘も近代化
  • (p.67) 第四回(続き):広田別荘も近代化、松内則三
  • (p.68) 第四回(続き):松内則三、櫟木幹雄、馬場屋敷
  • (p.69) 第四回(続き):馬場屋敷、粟津清亮、増田高頼、大沢別荘
  • (p.70) 第四回(続き):大沢別荘、坪井正五郎
  • (p.71) 第四回(続き):坪井正五郎、小金井良精
  • (p.72) 第四回(続き):小金井良精、牧野英一邸跡
  • (p.73) 第四回(続き):牧野英一邸跡、小橋一太
  • (p.74) 第四回(続き):小橋一太、原口兼済男爵
  • (p.75) 第四回(続き):原口兼済男爵、鉄砲道と南湖小和田線、ヨネ・ノグチ、イサム・ノグチ
  • (p.76) 第四回(続き):ヨネ・ノグチ、イサム・ノグチ、石黒忠恵(ただのり)
  • (p.77) 第四回(続き):石黒忠恵(ただのり)、仁井田益太郎、仁井田隆
  • (p.78) 第四回(続き):仁井田隆、平井政遒
  • (p.79) 第四回(続き):平井政遒、南部頼精、茅ヶ崎・菱沼村境、井上有一
  • (p.80) 第四回(続き):井上有一、山田薫、V.C.ジョセフ、笠信太郎
  • (p.81) 第四回(続き):笠信太郎、おみこしどおり
  • (p.82) 第四回(続き):おみこしどおり、ゾルゲ、タイセリッチ、竹内綱・明太郎、吉田茂
  • (p.83) 第四回(続き):竹内綱・明太郎、吉田茂
  • (p.84) 第四回(続き):竹内綱・明太郎、吉田茂
  • (p.85) 第四回(続き):竹内綱・明太郎、吉田茂
  • (p.86) 第四回(続き):竹内綱・明太郎、吉田茂
  • (p.87) 第四回(続き):竹内綱・明太郎、吉田茂、甲野棐(たすく)
  • (p.88) 第四回(続き):甲野棐(たすく)
  • (p.89) 第四回(続き):甲野棐(たすく)
  • (p.90) 第四回(続き):甲野棐(たすく)、田村昌
  • (p.91) 第四回(続き):田村昌、荒畑寒村
  • (p.92) 第四回(続き):荒畑寒村、大場信国
  • (p.93) 第四回(続き):大場信国、中泉正・行徳・正徳
  • (p.94) 第四回(続き):中泉正・行徳・正徳、藤井別荘
  • (p.95) 第四回(続き):藤井別荘、平山藤次郎
  • (p.96) 第四回(続き):平山藤次郎、森下・土岐、田中武兵衛
  • (p.99-100) 別荘リスト(代4回記録用)
  • (p.103) 第五回(昭和60年11月22日)の記録:小学校の門前街
  • (p.104) 第五回(続き):小学校の門前街、南湖一本村墓参道、八木重吉終焉の地
  • (p.105) 第五回(続き):八木重吉終焉の地、高橋誠一・生泉堂医院
  • (p.106) 第五回(続き):高橋誠一・生泉堂医院
  • (p.107) 第五回(続き):高橋誠一・生泉堂医院、発電所・煉瓦場
  • (p.108) 第五回(続き):発電所・煉瓦場、電話一番、二番、三番、五番、南湖異人館
  • (p.109) 第五回(続き):南湖異人館、六道の辻、速見御船
  • (p.110) 第五回(続き):速見御船、八雲神社、酒井伝次郎、萬鉄五郎のアトリエ跡
  • (p.111) 第五回(続き):萬鉄五郎のアトリエ跡、伴田別荘(友田恭助)
  • (p.112) 第五回(続き):伴田別荘(友田恭助)、小山敬三(文化勲章)
  • (p.113) 第五回(続き):小山敬三(文化勲章)、留岡幸助の家庭学校
  • (p.114) 第五回(続き):留岡幸助の家庭学校、住吉神社で南湖院門前町
  • (p.115) 第五回(続き):住吉神社で南湖院門前町、若い燕の語源
  • (p.116) 第五回(続き):若い燕の語源、南湖院跡
  • (p.117) 第五回(続き):南湖院跡、南湖公民館、補足
  • (p.125-126) 別荘リスト(代5回記録用)

第一回(昭和60年5月9日)の記録
(p.11)
講師: 川添 隆行
記録: 渡辺 保子
今日は、東海岸北一丁目、中海岸一丁目と、共恵二丁目を回ります。茅ヶ崎最初の別荘地、別荘の開拓地です。
<高浜緑地>
この南半分位が、川上音二郎のものでした。音二郎の使った井戸があります。当時の正面は南側にあり、そこにコレラで亡くなった人々を、南湖の方から運んだ道があり、少し先の高砂山で焼いたのです。大正の始めに原安三郎氏が買い、原さんがまた買い足して、この松籟荘の区域になっています。
昔、駅前で中海岸の原別荘はと聞くと、ここに案内したものですが、中海岸のは、原鉄太郎という三渓園の原さんの同族で、こちらは東海岸の松籟荘、今は高砂(たかすな)緑地です。
<えにしだ>
そこに立派なえにしだが有りますが、えにしだは名花だと思います。えにしだはラテン語で、プランタ・エニスタといい、エニスタが、えにしだとなりました。中国では花の形から、金雀花と付けられています。
イギリスの王朝、これはフランスの出身ですが、イングランドを統一する時に、えにしだの花を紋章にしていったという、欧州の政治史でも有名な花です。したがって、フランス、イタリーにもあるそうですが、こんなに大きくはない。こんなに立派なのは、日本でも茅ヶ崎が一番です。しかし最近は段々少なくなっていて残念です。
高知県の南と大分県に少し有りますが、えにしだを持って来たのは、東海岸の進さん、広田さん達です。別荘の松の下草に何が良いかと東大の農学部長に聞き、えにしだを勧められて植えたのが始まりです。今でも進さんの屋敷には相当ありますね。私は、えにしだは茅ヶ崎の誇りだと思っていますが、市の花には指定してくれませんでした。

(p.12)
<野中別荘>
いまは沢野家ですが、この家も名家です。青山にある法令出版社をおこした人で、野中さんの後を買われました。
戦後、茅ヶ崎にもアメリカ軍が駐留しましたが、兵隊は南湖院にいて、中隊長がこの原別荘に、小隊長が向かいの沢野さんにいました。床の間等みんな洋式に、つくり直されてしまいました。
野中到は、夫婦で富士山に登って、山頂で気象観測をしました。明治の三大冒険といわれ、夫婦で凍傷になってもなお頑張っているので、政府は閣議を開いて二人を下ろせということになり、警察署長がいってつれ戻したという人です。当時の新聞の社会面にいっぱい書いてあります。
三大冒険というのは、これと、白瀬中尉の南極探検、福島大将のシベリヤ横断で、福島大将も東海岸南一丁目に別荘が有りました。
<牛山別荘>
現在は図書館です。横浜の地主で、山の上の方からずっと持っていました。だいたい空地で、戦後は松が植えられていました。少し前にこの高い所に、三菱が六階建のマンションを作る計画をたて、この辺の人が反対しました。
<岡崎別荘>
電話局から向うが岡崎久次郎の別荘でした。岡崎久次郎は憲政会の領袖で、大実業家でした。私は憲政会のドル箱だったのではと思うのですが、政治史では功績の大きい人です。
<純水館用地>
いまの教会のところは純水館の用地で、桃や梅が植わっていました。教会が出来たのは、戦後も10年位たってからです。純水館は北口の製糸会社で、駅から国道までずっと工場がありました。
<土方別荘>
土方与志の祖父、土方久元の別荘です。土佐出身ですが脱藩して下関に居た

(p.13)
ため長州派です。後年、宮内大臣になった明治の元勲です。
芸能通で、川上音二郎などが下駄をはいてくる、伊藤博文も遊びに来たということです。息子さんは早く死にましたが、お孫さんが夏ここで育って友田別荘の息子と海岸で会いながら、芝居の話が進み、従弟の玄味氏も集って「南湖座」をつくりました。斜面に野外劇場のような形でつくったと言うことです。ここから東は藤沢まで一軒も家がないと書かれてありますから、南湖のおばちゃん達が見に来たわけです。それが後年、土方与志と友田恭助が新劇のリーダーになるきっかけになったと思われます。
<清浦別荘>
現、高砂会館、元、市立図書館、ここが一番高い所で、清浦別荘跡です。この山の上から相模川を渡る汽車が見えたという、四方に見晴らしの良い所です。
土方さんにとって清浦さんは当時は内務省の警保局長、自分は宮内大臣、位が違います。その若僧の別荘が高い所にあって、目の上のコブと思っていたわけです。そうしたら清浦さんに金のいることができてしまいます。京都の西陣の大御所、川島甚兵衛に五万円使わせて、ベルギーの博覧会に出品するんです。当時、清浦さんは農商務大臣でした。博覧会が終わったらベルギーの王様に売るつもりだったのが、ちょうどその時アフリカのベルギー領で「第二次コンゴ事件」が起いて、買うどころではなく、キャンセルされてしまいます。
清浦さんは川甚に迷惑をかけて申し訳ないと弁済することにします。いまと逆ですね。政治家が実業家に弁済するんですから、その資金の一部にとこの敷地を一万五千円で土方に売ってしまいます。これは清浦伝に出ています。
<大きくなった土方別荘>
清浦をあわせて土方別荘は大きくなりました。孫の土方与志が相談しますが、アカの伯爵だといって、伯爵を没収されてしまいます。

第二回(昭和60年7月18日)の記録
(p.21)
講師: 川添 隆行氏
今日は、中海岸の2丁目、3丁目、4丁目をまわります。別荘のものは残っていませんので、別荘跡地ですね。分譲住宅になったりしています。別荘がどんな地形の所にできたか、どんな人が住んでいたかということを見てまわります。
<鉄砲道>
茅ヶ崎の有名な史跡として、鉄砲道を歩きます。享保13年にでき、その年は、徳川吉宗将軍の時で、日本に初めて南蛮から象が来て、長崎に上陸した象を江戸まで引っぱっていくという、大へんな騒ぎだったのです。その頃、相模湾の防衛として、鉄砲道ができた。そして、幕末に砲術場ができて、唯一の柳島から辻堂に至る道であったわけです。そこに約10ヶ所の幕府直営の松林を作った。防砂林ですね。その鉄砲道のおもかげがだんだんなくなります。
明治15年頃に、コレラが流行した時に、死んだ人を南湖から運んで来たんです。それを高砂山の上で焼いたらしい。荷車で、ゴロゴロ引いて、高砂山へ登る名残りの道がちょっと残っているんですよ。でも、すぐなくなりますから、今のうちにと思いまして。この鉄砲道は、近く「小和田・南湖線」となって、15から16m巾の道になりますから、ここも、まもなくなくなります。

(p.22)
<佐竹義勝の別荘>
その山の上の一帯は、秋田の殿様、佐竹子爵の別荘です。そこの別荘番を、そこの植亀さんのおとうさんがしていました。佐竹さんは、米相場をやって、つぶれてしまいました。大昭9年頃です。秋田は米どころですからね。
<美濃部坂周辺>
佐竹さんの向こうが美濃部坂です。美濃部達吉は、天皇機関説、憲法学者として有名です。多美夫人が、大麓の長女です。ついでに言いますと、大麓の次女は、鳩山秀夫夫人、一郎の弟です。どうもこの近くに居たらしい。その弟が末広がん太郎、いず太郎というんだそうですが、戦後の中労委委員長、東大法学部長、水泳連盟の会長さんだったんですね。その息子さんが、茅ヶ崎で溺死したんです。困ったもんだなんて。私はお会いしました。そういう秀才3兄弟がいました。工学博士の娘婿たちです。
もう一つ逸話を申しますと、この近くに岡崎文吉という工学博士が居ました。北海道の石狩川、満州の遼河、吉林省の松花江、などの治水事業をやった人です。石狩川の水量と、水の圧力を全部調べぬいて、あの改修工事をやったわけです。今の石狩川の堤防の設計を、ほとんど、この人がやりました。その人が、この近くに住んでいました。そこに当時、仙台二高の生徒の岡崎一夫さんがいて、垣根の向こうで、「りょうちゃん、りょうちゃん」という声がよく聞こえてきた。それが、のちの東京都知事、参議院議員でした。このことは、前にテレビで出ましたが、亮吉氏は釜成屋からお菓子をとって、舞台の上で食べました。その釜成屋のおじいちゃんも、亡くなりました。
<市川段四郎の別荘>
南湖3丁目の十字路の角に、松岡という素封家がいました。今もありますが。その三角形の鉄砲道の角の所に、市川段四郎がいました。子が、遠之助、おくさんは、高杉早苗ですね。よく会いました。
美濃部さんの下の角の所に、斎藤徹男という人がいました。明治座、歌舞伎座の支配人です。この人は、明治座かどこかで、心臓マヒで亡くなりましたが、身体のいい人でした。歌舞伎同志が向かい合っていたんですね。

第五回(昭和60年11月22日)の記録
(p.103)
講師: 川添 隆行
記録: 大野 八重子
<小学校の門前街>
この商店街=今は駅南口と新町大踏切と、これから行く長谷川書店角の3点を結ぶ三角形は、駅(北口、南口)から南湖方面に向かう途中に栄えた商店街です。茅ヶ崎小学校東門前町ともいいます。このスーパーの所には、昭和2年1月12日に大黒館(映画館)ができました。昔は学校の東側はひどい湿地帯だったらしいです。大正4年に入学した人の話では、今江塚チェーンと川島陶器店の所(2丁目7-27)に文房具店がありましたが、店先の緑の下は泥だらけだったそうです。学校のまわりには明治41年頃ポプラが植えてありました。

(p.104)
<南湖一本村墓参道>
大踏切から学校前を南下してきて、ここの所は山の突きあたりで、左右に曲がるほかなかった。これから南方の広い道は戦後しばらくしてから開通したものです。漁港通りとか、海水浴場通りとかいいます。この突きあたりに東西に横たわっていた山が、高砂(たかすな)の一部でした。戦後の神武景気のため、砂が高く売れるようになったので、この砂山をつぶして売りました。
この砂丘のうえ、ここより東方に山崎(のち河村)別荘があったことは第1回のときに話しました。この南方の高いところ(今 高砂会館)に清浦別荘、その外側に土方(ひじかた)の別荘、清浦と山崎の間に清棲別荘がありました。三人は当時の内務省、宮内省の高官(局長・知事仲間)でした。
この東西に南湖から東海岸・若松町へ通ずる旧道が、私のいう墓参道でした。本村の次男・三男で、十間坂・南湖に分家して住みついた人々が多い。その人たちが盆、暮れ、お彼岸に往復したというわけです。
<八木重吉終焉の地>
これが日之出屋です。鉄道より南の海岸地帯で、一番古い酒屋です。なお、この手前の道(昔、真北から校庭西部を貫通してここに出た)は、高砂下(地名)と十間坂下(同)の境界でした。
日之出屋から更に西へ110メートルの右側の共恵クリーニングとトモエバーバーと浅場さんの間の道、これは13号地と14号地の境界ですが、これを北へ入って右側13号34番の3軒のうち真ん中の家、いま江口倉治さんの所が、八木重吉が住んでいたところです。このあたりの当時の5〜6軒は、相模の琴ヶ浜(木村氏)が建てた借家でした。八木は登美子夫人と子ども2人で、この家で療養したが、かなわず死亡したわけです。

(p.116)
小山敬三画伯は、明治30年8月11日、長野県の生まれ。慶大中退。洋画、芸術院会員、一水創立委員、日戦顧問、文化勲章受賞。昔の名刺は「西海岸」となっていました。
<留岡幸助の家庭学校>
小山さんの南西にバス停「西浜小学校前」の標柱が立っております。ここから先、大通りの左側、国道134号までが、市立西浜小学校です。この校庭の北部に、昔、留岡幸助の家庭学校がありました。
私は前々から茅ヶ崎の4大社会福祉事業として、高田畊安の南湖院、林止の林間学校、上田庄三郎の雲雀が丘自由学校、そしてこの家庭学校の4つを挙げています。
留岡幸助については、すでに多くの読み物があり、とくに2、3年前、毎日新聞がくわしく、長い連載をいたしましたから、それをぜひ読んでいただきたいと存じますが、留岡は、明治中期から大正にかけてのクリスチャンで、今でいえば非行少年(当時は不良少年といいました)で、感化院、少年刑務所などを出てきた青少年を引き取って再教育しようというボランティアを始めました。

(p.123)
<南湖院跡>
南湖7丁目の全域=南北300メートル、東西300メートルが南湖院跡地です。北半分がほぼ当時のおもかげを残しております。最も古い建物は「南湖荘」と今はいわれます。その南方全体が白亜の大きなビル2棟「老人ホーム・太陽の郷」「太陽の郷診療所」などで、以上いずれも、今も高田準三氏所有経営です。この向こうの学校が西浜高校です。旧敷地の西南角で、約5万平方米に当たります。国木田独歩が入っていた第3病棟は、老人ホームと校舎の間です。
戦後、進駐軍のうち戦車第1中隊が駐屯しました。朝鮮戦争が始まり、一番先に仁川に上陸して全滅しました。西浜高校の敷地になっている海寄りの高台に大きな水道塔が残っていましたが、その壁には、米兵が英語でペンキで、それぞれ別れに際しての言葉を書いたものが残っていて、痛々しく思ったものです。

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