茅ヶ崎の別荘史  別荘地の成立過程と変遷

文教大学女子短期大学部研究紀要46集, 51-61, 2003
茅ヶ崎の別荘史
(1)別荘地の成立過程と変遷
川崎 衿子
A History of Villas Built in the Early 1900’s in Chigasaki (I)
Eriko Kawasaki

Ⅰ はじめに

1898(明治31)年6月に茅ヶ崎駅が開設された。開設前々年の1896(明治29)年には、外科医・須田経哲が茅ヶ崎駅近くに別荘を建て、さらに続いて歌舞伎俳優の市川団十郎が小和田地区(現在平和町)に壮大な別荘を建設した。駅完成後は、宮内省、内務省などの高級官僚、政治家、軍人、学者などが現在の中海岸、東海岸方面に別荘を構えるようになった。以後明治末には既に200棟を越す別荘があったといわれる²)。
一方、後に戦前の最盛期には東洋一の設備をもつまでに発展した結核専門病院・南湖院が駅開設の翌年に開院した。南湖院の経営は都会の上層階級の患者を優待したことから、南湖周辺には、いわゆる文化人、富裕人が集まった。そしてこの存在は茅ヶ崎を単なる別荘地としてだけではなく療養地としての性格を広く印象づけることにもなった。
これらの動向は、人口6000人余であった旧来の農漁村・茅ヶ崎の社会経済に多様な変化をもたらした。その後も関東大震災、第二次世界大戦の影響を受け、茅ヶ崎の別荘の様相は著しい変貌を遂げていく。
本研究では茅ヶ崎の別荘地の開発過程とその特性を明らかにしつつ、明治・大正・昭和・平成にいたるまでの別荘の歴史的変遷を事例的に捉え考察を試みた。

Ⅱ 別荘地の成立と発展・変貌

1 茅ヶ崎駅の開業と別荘誘致
横浜・国府津間が開通した時点での駅設置条件は東海道線の旧宿場ごととされたため、藤沢・平塚間には駅がなかった。茅ヶ崎市史によれば、村に停車場を求める運動は、国府津までの鉄道開通直後から始められ、1895(明治28)年には周辺の村会有力者の連署で「鉄道停車場設置願」が鉄道局長宛に提出されている。中央管轄省庁にとって茅ヶ崎は未開の地であり、当初は停車場設置に消極的であったといわれるが、1896(明治29)年に歌舞伎俳優・九代目市川団十郎が小和田に6000坪の別荘用地を購入し、翌年には贅を凝らした別荘・孤松庵を建築したことによって茅ヶ崎の名は有名になり、それが駅誘致に役立ったとされる。
1894(明治27)年、30歳で茅ヶ崎村長に就任し、1919(大正8)年に町長の職を去るまでの25年間を首長として在任した伊藤里之助は、村政基盤を固めるため、駅開設前後から別荘誘致に積極的に関わっていった。例えば内務官僚・清浦奎吾(1850~1942)³)に対しては高砂の官有地を村として払い下げた上で、清浦へ「無代価譲渡」することを村議会は決議している⁴)。また同じく内務官僚・土方久元(1833~1918)⁵)には別荘地購入を村長として斡旋し⁶)、同じく花房義質(1842~1917)⁷)も別荘地の選定・購入を伊藤に委任している⁸)。また、山崎直胤(1853~1918)⁹)は自身の別荘の間取り、職人手配、竣工後の引っ越しの段取りなどを村長宛に依頼し、尚かつ知人の貸別荘斡旋をも願い出ている¹⁰)。彼ら4人の政府要人の別荘は中海岸の駅寄りに互いに隣接して1897(明治30)年に建てられた。
これらをはじめとして明治30年代から40年代には同じく政府要人、知名人や学者たちの別荘が相次いで建設された。それらの別荘地についても伊藤村長は買い入れの便宜をはかったと同時に、彼ら別荘人の力を村政に生かすことも怠らなかった。
開発が進むにつれ道路改修の必要もでてきた。対象となる道路を日常的に使用する別荘所有者が、その改修費用の不足分を負担するという交渉が伊藤村長のもとで進んだ。1908(明治41)年8月には進経太(石川島造船所取締役)、瀬脇寿雅(父は幕末の蘭学者・瀬脇節蔵)、広田精一(工学博士、電気学校・後の東京電機大学の創立者)の3名が発起人となって別荘居住者20名の寄付を集め、総額150円を村に納めている¹¹)。
別荘地の実質的な開発を目的にしたばかりではなく、伊藤村長は別荘人を講師に、或いは別荘人の力を借りて中央の名士を招き、講演会を開催するなど、別荘を軸とした地域の文化振興策にも熱心であった。
伊藤村長と村会は別荘人と協力関係を保ちながら明治40年代以降、別荘地は中海岸から東海岸、菱沼・小和田地区へと発展、その範囲を広げていった。
1908(明治41)年10月、茅ヶ崎村・鶴嶺村・松林村は合併して茅ヶ崎町が誕生した。1911(明治44)年には茅ヶ崎電燈株式会社が設立された。この時の電力供給についても前出の別荘人・広田精一は指導力を発揮している¹²)。その後、町の電灯普及が著しく進展した。
1917(大正6)、現在茅ヶ崎・橋本間を結ぶJR相模線の前身・相模鉄道株式会社が設立された。社長には、衆議院議員で憲政会の領袖といわれ大日本自転車社長でもあった岡崎久次郎が就任した。彼もまた中海岸地区に大規模別荘を構えていた別荘人であった。相模鉄道が実際に運行されたのは1921(大正10)年の茅ヶ崎・寒川間が最初であったが、その後関東大震災をはさんで1926(大正15)年には厚木までの開通を果たすことができた。その時点での乗客数は10余万人、さらに厚木に小田原急行が接続した1927(昭和2)年には乗客数は30余万人と増加した。1931(昭和6)年には茅ヶ崎・橋本間が全面開通し、相模鉄道では海水浴場に直営の海の家を開設するなど乗客誘致に努めた。
このような茅ヶ崎町の発展を背景に大正後期から土地開発は広域化、組織化され別荘地分譲にも新しい動きがでてきた。地元・秋本商事部が駅よりの雲雀ヶ岡(現ひばりが丘)の住宅兼別荘地開発を企画し、その地鎮祭が1921(大正10)年に挙行された。その際、会社は水越良介町長(1920年9月より1921年10月まで在任)宛に招待状をしたためている¹³)。少し時代は下がるが、震災後、小和田地区には完成時には25戸となる鶴が浜貸別荘が開発され、その祝賀会の様子が『横浜貿易新報』掲載されている¹⁴)。この他にも農家を貸別荘にするなど、個人的な貸別荘の例は海水浴客の増加とともに多かったであろうと思われる。
震災直前頃には、従前からの大規模別荘と中・小規模別荘が入り組んで併存する光景が生まれていった。
やがて1923(大正12)年9月に起こった関東大震災は、穏やかな別荘地に大きな変革をもたらした。
2 関東大震災が別荘地に与えた影響
関東大震災は当地に未曾有の損害をあたえた。住宅3426戸のうち3319戸が全半壊し、町営建築物も壊滅、交通網も寸断された。別荘も例外ではなく市史によれば皇族・華族・名士の大規模別荘の24戸が全半壊したことが記されている¹⁵)。この結果、別荘滞在者は減少した。別荘滞在者の人口統計からみると、1917(大正6)年には男女合わせて1266名(外国人を除く)であったものが、1927(昭和2)年には同じく1045名となっている。しかし再建された別荘も多く、前出の罹災別荘24戸の中、約半数の再建が確認されている。一方、中・小規模別荘についての損害状況は明らかではないが、震災を機会に当地を引き上げた人は少なかったであろうといわれている。
その時期をはさんで、確認されている主な別荘分布は (図1) にみられる通りである。図は「茅ヶ崎の文化財を守る会」世話人代表・岡崎周氏、および川添隆行氏の調査記録、講演記録をもとに、本研究の調査を加えて筆者が作成したものである。
首都圏全域の復旧が進むにつれて、茅ヶ崎は首都圏勤務者の住宅地としての人気が高まり、新たな住宅用地・別荘用地として土地の売買が増加した。
昭和10年代初めの高砂地域における地所の区画分譲広告によると、一区画の最小規模177坪から最大740坪、大方300坪前後の32区画が造成され分譲住宅地として売りに出されている¹⁶)。その広告文には「・・・海岸を離れること僅かに四百米の乾燥地一帯の松林にして、付近名士の別荘多し」とうたわれており、別荘地としての茅ヶ崎の醸し出す雰囲気が、分譲地売り出しの好条件になっていることがうかがえる。
また神奈川県も周辺市町村と調整を計った上、道路網整備に乗り出し、海岸沿いの県有地の宅地化に着手した。1935(昭和10)年度には小和田海岸地区の区画整理を行い公的機関による宅地化が本格的に進展した。
3 茅ヶ崎海岸と海水浴
地域振興の活性化を図る上で、海水浴場の整備は重要な施策であった。
もともと海水浴の習慣の無かったわが国において、海水浴が浸透していくには二つの経路があるといわれる。一つは西洋で行われていた医療行為・治療行為が軍や学校で採用されたことである。海水浴は皮膚を鍛えて風邪に強い体をつくり、貧血病、腺病、胃腸炎、神経病に効果があるとされたことから、西洋の公衆衛生学を踏まえた初代軍医総監・松本順(良順)や初代内務省衛生局長・長与専斉らが先駆者となって海水浴場を開設した。1885(明治18)年に開設された大磯の照ヶ埼海水浴場は松本の指導であり、また同じ頃開設された鎌倉海水浴場は長与の指導によるものである。
他方、横浜を中心に居留地に住んだ外国人が根岸や本牧の海岸で海水浴を行い、西洋風俗として鮮烈な印象与えたことも海水浴浸透の大きな要素となった。
1887(明治20)年大磯駅が設置された。都会を離れた転地療養、海水浴療法の効能を得るには1、2ヵ月の長期滞在が推奨され、そのための旅館も建ちはじめた。温暖な気候は海水浴ばかりではなく、避暑避寒にも適していたことから政財界の有力者が別荘を構え、以来大磯は高級海浜保養地として評判を高めることとなった。
大磯に約10年遅れて駅が開設された茅ヶ崎では、その前後から日帰りの海水浴客が訪れはじめていた。海岸近くにはいくつかの旅店が安直な宿を経営し、海水用具や水着の貸与を始め、地引き網などの実際を見せて集客を試みた。大磯・平塚・鵠沼などの海水浴場と比べると、茅ヶ崎は気軽に利用できる庶民性が好まれたようである。
1899(明治32)年、旅館・茅ヶ崎館が開業した。後年著名人の常宿として有名ともなったが、当初は水着姿で海岸にでられる良好な海水浴客向けの旅館であった。さらに民家の中には避暑客のために間貸しをするものも出現した。大正期になると海水浴客の数は増加し、その様子は「各別荘は勿論貸別荘・貸間は悉く塞がり、昼の海岸夜の市中は到る処なかなか賑わいつつあり・・・」¹⁷)と報じられている。
1914(大正3)年には、『横浜貿易新報』が募集した「県下避暑12勝新撰」で茅ヶ崎は10位に入り、折からの大戦景気の経済好況と相まって海水浴場は活況を呈した。
翌年には町主導により道路の改修、更衣所、物品販売所、休憩所、船遊び、大弓場などが整えられ、衛生上の取り締まりも強化されて海岸の賑わいは以前にも増した。
昭和期にはいると町営海水浴場の規模は拡大し、また相模鉄道も参入して海の家の営業を手がけるようになった。
しかし、その後の戦局の悪化は海水浴客を激減させ、海岸一帯は急速にさびれていった。海岸が再び賑わいを取り戻すには戦後の10年を経なければならなかった。

Ⅲ 事例にみる別荘の変遷史
先に述べたとおり実質的に明治30年代から始まった別荘地・茅ヶ崎の歴史は百余年の歳月の中で幾多の変節を経ながら、いまもなお著しい変貌の渦中にある。
しかしながら別荘地として発展してきた茅ヶ崎が、その後どのような経緯をたどって今日のような町へと変貌を遂げたのか、それを知る人々は近年減少の一途をたどっている。その薄れゆく記憶が継承されている今の時代において、これらを記録として残し、後世に伝えることは意義深いことと考え、本研究の調査を開始した。
調査概要は以下に示すとおりである。
    • 調査期間: 2001年9月~2002年9月
    • 調査実施協力者:
        • 湘南設計監理協会 代表・岸 照弘 氏
        • まち観まち景フォーラム 代表・益永 律子 氏
        • 茅ヶ崎市都市整備課・まちづくり担当
        • 一級建築士・宮本 直子 氏

    • 調査方法:
      (図1) に示された地図をもとに旧別荘跡地周辺の実情を踏査し現状観察の上、調査対象住宅をリストアップした。その条件は保存状態の比較的良好な長寿命住宅とした。

リストアップした対象住宅居住者に当該住宅の建設年、居住歴、改修・建て替え歴、将来計画などのアンケートを依頼、郵送した。
    • 調査対象住宅: 112件
    • 返送回答数: 49件 約44%

以上の回答のあった事例の中から、再調査を依頼し承諾を得てインタビューを行い、さらに詳しい当時の別荘の使用状況などの聞き取りを行った。同時に住宅の実測を行った。
その結果、別荘が変容していく過程は、一様ではないものの、敷地面積5000坪程度以上の大規模別荘と、700坪程度以下の中小規模の別荘ではそれぞれの属性に応じた共通性が認められた。その共通性をもとに別荘変容の類型化を試み、本報ではその一部を考察した。
1 明治期の大規模別荘の宅地化

1)Ni邸(東海岸北)
1910(明治43)年、Ni氏は前所有者Is氏より5000坪の地所を譲り受けた。Is氏は維新の頃より医学の道に学び、諸戦役に軍医として働き、日清戦争の論功行賞により男爵の爵位を得、1897(明治30)年には陸軍軍医総監になった。その後貴族院議員、子爵と名を立て、西洋医学の普及、軍医制度、医療制度の整備に尽力した人物である。
初代当主Ni氏は法学博士で、東京帝国大学の教授を務めた民法、婚姻法の大家であった。東京・丸の内に法律事務所を構え、本宅は東京・小石川(現文京区)にあった。茅ヶ崎に別荘を建てたのは幼少の長男が病弱であったことから、療養に適した当地・茅ヶ崎を選んだと伝えられる。
Ni氏がここを取得した時には、既に明治20年頃に建てられたであろう旧居が存在していたが、入居後しばらくして大幅な増築が行われた。その後、長年にわたり何回かの改修、増改築を重ねながら住みこなしをしてきたが、1990(平成2)年にすべてを取り壊して現住居に改められた。
旧居は茅葺きの55, 6坪位の平屋であった。当初浴室は母屋と離れて別棟に置かれ、更衣室、焚き口場を備えた一棟建てであったが、改修とともに住宅内部に取り込まれていった。
Ni氏は、週末には旧丸ビル内にあった事務所から、茅ヶ崎に来ては週末を過ごし、休養をとりながらも仕事上の構想を練るなど、この別荘を1944(昭和19)年に亡くなる直前まで活用していたという。住み込みの別荘番夫婦が常時ここを管理し、建物と家族の世話に専念していた。
先の大戦中に東京の本宅が空襲を受けて焼失し、家族は全員茅ヶ崎に移住することとなった。初代Ni氏逝去後の地所の相続、分割、譲渡の詳細は明らかではないが、土地形状から推察して大きな変更があったものと思われる。
鉄砲道の建設はNi邸の敷地に大きな変化を与えた。従来回り込んでいた鉄砲道がNi邸を東西に貫通することとなり、敷地の南北が分断された。道路部分は市に移管され、北側も現在では部分的に他に譲渡されている。
現在は初代Ni氏の孫に当たる3代目当主が当家を継承し、管理にあたっている。今もって当時の高級別荘の雰囲気と規模を残すNi家ではあるが、当主はこのままの状態を維持できるかについては非常な危惧を抱いている。先祖が残した環境を継承したい気持ちは充分にありながらも、不動産にかかる税金の負担は重く、これを支払うためには所有地の一部の売却もやむを得ないとしている。
2)Hr邸(東海岸南)
ここに別荘が建てられたのは1911(明治44)年で、初代Hr氏が結核療養のため南湖院を頼り、東京・麹町(現千代田区)から移住したのが、この別荘の始まりとされる。
Hr氏は、東京に私立電機学校(現東京電機大学)を創設し、神戸高等工業学校(現神戸大学工学部)の初代校長を務めるなど電気科学教育に大きな力を注いだ。また一方、近代化の緒についた茅ヶ崎を行政当局とともに先導し、まちの発展に尽くし茅ヶ崎の別荘地発展に多くの業績を残したことでも知られ、その先見性は今日においても多方面で評価されている。
最初は約400坪の敷地に藁葺きの一部2階建ての家が建てられたが、12年後の1923(大正12)年に起きた関東大震災で倒壊、その2年後に倒壊家屋の廃材を使用して敷地内の東と西に2棟の家が再建された。
これより先、初代は風が吹きつける海岸の砂に悩まされ、その策として周辺の別荘人達と協力しながら別荘地と海岸間の砂丘に植林を試みていた。この試行に当たっては神奈川県と話し合いがなされ、交換条件として植林が成功した場合には、県は当該土地をHr氏に払い下げるという約束を取り交わしていた。失敗を重ねながらも熱心な努力が功を奏し、その結果、敷地南端から海岸にいたるまでの広大な土地がHr家のものとなった。敷地全体は約2万2千坪(72,500㎡)へと拡大した。震災後に建てられた家は、その払い下げの土地の上に建てられた。
1931(昭和6)年、初代が亡くなった。ほどなくして、その遺言により県より払い下げられた土地の大部分は電機大学に寄付された。
1947(昭和22)年、電機大学はその土地を神奈川県に売却、県はここを宅地造成して県営の戸建て住宅を建て入居者を募った。何年かの後、規定に従い入居者に払い下げられて、それぞれが個人所有の民有地となった。
2代目・長男一家は外地で暮らしていたが、1939(昭和14)年に帰国し、一時茅ヶ崎で暮らした後、東京、平塚、川口と転居した。
戦時中、別荘は贅沢財産とみなされたことから、震災廃材で建てられた東西2棟の家は、貸家として管理・運用をした。1946(昭和21)年「西の家」が明け渡され、同時に初代未亡人と2代目・次男が入居した。
1954(昭和29)年、西の家は火災により焼失した。「東の家」の貸家人が立ち退き、初代未亡人と2代目・次男はそちらに移住し、1963(昭和38)年まで居住した。
東の家は和洋折衷の独特の意匠を備えたデザインであったといわれるが、1964(昭和39)年からは結婚間もない3代目・長男一家が東京より転居し、1969(昭和44)年まで居住した。その年には、焼失した西の家の跡地に3代目・長男の家が建てられ、一家は東の家より移り、その後東の家は取り壊されて今日に至っている。
1961(昭和36)年、2代目が亡くなった。遺産相続に際しては敷地はそのまま2代目未亡人とその子ども・3代目姉弟の3人の共有名義に書き改められた。
1981(昭和56)年、敷地は著しい変革の時を迎えた。土地は前出3人の共有名義から個人帰属分を明確にした登記変えが行われた。3代目・長男が引き継いだ部分は、敷地内に環状道路が設けられ、道路内側の約1000坪が自身の屋敷として整備された。道路外周の土地は区画割りして宅地分譲が行われ、敷地の形状、形態は大きく変化した。
この由緒ある屋敷の姿が大きく変わった変節点は、1931(昭和6)年と1981(昭和56)年であろう。二つの時期とも先代の相続問題解決が、土地の形状を変えるきっかけとなっている。2002(平成14)年現在、周辺には樹齢100年を超えるであろう楠、初代ゆかりの松林が残り、自然環境に恵まれた優良な住宅街を形成している。
また、屋敷内の樹木群は茅ヶ崎市の保存樹林指定制度の適用を受け、助成金による維持管理が行われている。
2 現存する昭和初期の別荘

1)Nk邸(美住町)
1939(昭和14)年竣工の木造平屋建てで、建設当時とほとんど変わらぬまま現存している。(図2) は保存されている竣工当時の平面図を筆者がかき改めたものである。
初代当主は1889(明治22)年生まれ、後年東京・荏原(現品川区)にて精密機械会社を創立し、軍需事業で財をなした。茅ヶ崎に別荘を構想した頃、この周辺一帯は砂地で、敷地は700~800坪であったという。
設計は、当主の会社所在地と同じ東京・荏原に事務所を構えていた渓恒次郎が行った。1938(昭和13)年より設計が開始され、翌年竣工した。施工は逗子の大工・松井が当たった。
住居平面は玄関脇に洋間を備えた当時の典型的な中廊下型住宅であり、和室部分にも随所に細かな技巧が凝らされている。南東に突き出た洋間は、外壁はモルタルリシン仕上げで、突き出た二つの出隅が切り取られた形状である。内壁は腰が鏡板張り、上部は漆喰仕上げとなっている。天井は舟形天井である。
分銅式の上げ下げ窓の位置は、建設途中で設計変更が行われた。図面上の東面(暖炉の所)と西面(引き違い窓の所)にも同じ上げ下げ窓が設けられ、全部で6箇所の窓がこの洋間の雰囲気を作り上げている。壁の一部には木蓮の花柄のステンドガラスの丸窓が嵌め込まれている。図面上計画された暖炉は、避暑目的の別荘用途を考えて取りやめとなった。窓の外側には優雅な透かしを彫り込んだ観音開きの鎧戸があり、外観からもこの建物の精緻な造作が感じられる。
建設後ほどなくして大戦の影響が深まる中、当主は非常事態を想定して家具などを徐々に茅ヶ崎に移し疎開の準備を進めた。1945(昭和20)年5月、東京の本宅一帯は空襲を受け家は焼失した。ただちに初代夫婦と次男(長男は戦死)の3人は茅ヶ崎に転居した。
1946(昭和21)年次男は結婚し、2世代4人の生活が開始された。その後、次男夫婦に二人の子どもが生まれ、6人家族の時代を経て、1958(昭和33)年には初代夫婦は伊豆に転居し、以後茅ヶ崎では2代目・次男夫婦の親子4人が暮らすこととなった。
その後、成長期を迎えた子ども達に個室が必要となったため、浴室は改装されて長女の部屋となり、北側東の和室(女中室)は長男の個室となった。
1960(昭和35)年頃、上水道が敷設され、それまで人研ぎであった流しをブリキ仕様に変えた。1986, 7(昭和61, 2)年頃、台所の大改装を行った。隣接する納戸と台所は一体化され、設備を一新して最新のダイニングキッチンに改造され、そのまま今日まで使われている。
1994(平成6)年、2代目当主が亡くなり、現在は未亡人が細部にまで行き渡った管理を行い引き続き居住している。
敷地は道路整備や相続税の工面などで削減され、現在約700坪となっているが、邸宅内の樹林群は市の保存樹林の指定を受け、美しい庭園環境が維持されている。
住宅とは別棟に敷地内には江戸時代に建造されたという茶室がある。東京・麹町の下屋敷にあったものを移築し、数寄屋建築の専門家に修復を依頼し1年の工期をかけて1982(昭和57)年に完成した。
敷地内には、さらに本年・2002(平成14)年に竣工したばかりの二人の3代目のための二世帯住居がある。従って、ここでは19世紀、20世紀、21世紀の3世紀のそれぞれの建物を同時にみることができる。
2)Tk邸(南湖)
建設は1932(昭和7)年頃といわれる。建て主に事情が生じ、未完成のまま手放さざるを得なかったものを、現在居住者のTk家未亡人・C氏の祖父が譲り受け、その後の工事を継承した。従って完全な竣工は、購入後の1934(昭和9)年頃とされる。
祖父の本宅は横浜にあり、ここは別荘として使用された。建設時の家屋は、現在地より数100m離れた場所に位置していたが、1939(昭和14)年に引き屋により現在地に移設された。
当時C氏は実家を離れ祖父と同居していたが、Tk氏と結婚、そして長女が生まれた後、1941(昭和16)年、Tk一家はここに移り住むこととなった。やがて戦時色が濃くなり、横浜の本宅が空襲を受け全焼、祖父も茅ヶ崎へと居を移した。
Tk夫妻の4人の女児達はここで育ち、やがてそれぞれに独立して家を離れた。2001(平成13)年に夫が亡くなり、現在は88歳になるC氏が独りでここに住んでいる。
敷地面積は当初約350坪あったが、1965(昭和40)年頃に一部を売却し現状は約300坪である。その敷地内にアパートを2棟建て経営に当たっている。C氏の長女はこのアパートの一室に住み、日常的に母娘の親密な行き来が行われている。
住居平面は玄関脇に洋間を備えた中廊下型住宅である。(図3) は筆者が現状を実測の上、かきおこした平面図である。
洋間の窓は分銅式の上げ下げ窓、内部は漆喰仕上げでいずれも当時のままの状態工程で、今日も使われている。座敷と二つの和室の内部、造作は手入れが行き届き、今もなお清々しさを残している。
座敷は床の間と簡素な書院のついた8帖間である。外周に広幅の廊下が回っているが、この廊下の床は外側に向かって、ゆるい勾配がつけられており、独特の意匠が凝らされている。
細かな部分的な内部改装、模様替えは何回か繰り返されてはいるが、大きな変更は昭和30年頃の台所と北側和室(茶の間)まわり、および昭和40年頃の南側6帖の増築である。従来台所と北側和室は押入により隔てられていたが、押入を取り払って2室を連続させ、茶の間がつくられた。また窓も増設されて北側全体の環境は大きく向上した。南側和室は下屋形式で張り出され、現在はベッドルームとして使われている。
台所設備、浴室はたびたび改修をしており、その詳しい記録は確認することはできない。斜線部分は増築箇所を示している。
ベッドをはじめ洋服だんす、洋間のテーブル、椅子、戸棚、玄関の下駄箱など横浜にあった本宅から運び込まれたものが今もそのまま使われており、この住宅の歴史的価値を高めている。
Ⅲ おわりに
本報告にある事例者達は幾多の困難を乗り越えて、初代が開いた遺産・屋敷を継承し、そこに居住し、血縁を絶やすことなく維持している。
資産の状態、所有地の状態は規模の大きい別荘ほど変化が激しく、中小規模の例では変化が顕著ではない。多額な納税負担をはじめとして、屋敷内の樹木剪定、清掃に関わる費用など大規模別荘ほど悩みは多い。
また、当主の死亡やそれに伴う相続問題は、必然的に建物や所有地の形状を変化させる。さらに、長く住み続けられる条件には居住者の「家を守る」意識が共通して高いことが解る。「家」とはもちろん、戸主支配の封建的集団ではなく、自分が育った空間、環境、家族などを含む総体的な生活共同集団である。家を愛する意識の強さが、周辺環境の保全にも貢献し、茅ヶ崎のまちの光景に情感を与えている。しかし、次の時代に引き継がれる時には、現状を維持するのは厳しいものとも予想される。相続税制が内包する問題点と環境問題は互いに相容れぬ事態を生じさせている。
今回は大規模別荘の変容と中小規模別荘の継承状況を対照的に考察したが、類型化を進めるにはまだ多くの検証が必要である。それらをこれからの課題としたい。
最後に本報告の住宅調査に当たっては、実際にまち歩きを行い長寿命住宅の発見につとめるなど多くの方の協力を頂いた。ここに記して謝意を表したい。
また、アンケートに協力いただいた方、本報告に直接関係して下さった対象住宅居住者の方々には、そのご厚意に特別な感謝を捧げるものである。
脚注
1)安島博幸、十代田朗『日本別荘史ノート』住まいの図書館出版局、1991
十代田朗、渡辺貴介、安島博幸「戦前の関東圏における別荘の立地とその類型に関する研究」日本建築学会計画系論文報告集、第436号、pp.79-86
2)『横浜貿易新報』1912、8月18日号
3)熊本出身。伯爵であり第二次松方内閣(明治29年9月~30年12月)の司法大臣。農商務大臣など要職を経て後に総理大臣となる
4)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p529(306号)
5)高知出身で幕末の志士。伯爵。内務大臣、内閣書記長、農商務大臣などを歴任。明治20~31年に渡り宮内大臣を務め、清浦別荘の南の土地を買い入れ、後に清浦の別荘も譲渡を受けその規模は広大となった。
6)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p531(309号)
7)岡山出身。子爵。農商務次官、宮中顧問官、宮内次官を歴任、明治30年当時は帝室会計審査局長で男爵であった。
8)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p534(311号)
9)兵庫出身。内務省会計局長、県治局長、山梨県・三重県各知事、宮内省調度頭などを務め、明治29年には金鶏間伺候(勅任官を5年以上奉職するなど功労のあるものを優遇して与えられた資格。勅任官の待遇を受けた)となった。
10)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p532(310号)
11)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p529(307号)
12)『茅ヶ崎市史4通史編』1978、p615
13)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p543(322号)
14)『横浜貿易新報』1924、5月20日号
15)『茅ヶ崎市史2資料編(下)近現代』茅ヶ崎市、1978、p545(324号)
16)『写真集茅ヶ崎』茅ヶ崎市、1987、p157
17)『横浜貿易新報』1913、8月8日号
参考文献
    • 『私の生涯』高橋誠一、遺稿集編集委員会編、茅ヶ崎恵泉学園、1969
    • 『明治の巡査日記-石上憲定「自渉録」』茅ヶ崎市、1997
    • 『茅ヶ崎市史2』資料編(下)近現代、茅ヶ崎市、1978
    • 『茅ヶ崎市史4』通史編、茅ヶ崎市、1978
    • 『茅ヶ崎市史5』概説編、茅ヶ崎市、1982
    • 『茅ヶ崎の別荘を歩いてみませんか』第1回~第5回記録、講師・川添隆行、1985
    • 『写真集・茅ヶ崎』茅ヶ崎市、1987
    • 『イサム・ノグチ』上、下、ドウス昌代、講談社、2000
    • 『日本別荘史ノート』安島博幸・十代田朗、住まいの図書館出版局、1991
    • 『萬鉄五郎と茅ヶ崎の風景』茅ヶ崎市史編纂委員会編、2001
    • 拙著「茅ヶ崎市北部丘陵地域における農家の生活環境-住生活の変容を視点として」『湘南フォーラム・第6号』文教大学湘南総合研究所紀要、pp.40-64、2002


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