解説用資料
<浮田和民>
電話局通り、球場通り、昔は駅の南口はなかった。この別荘は福祉会館から文化資料館まで、もっとずっと広い所でした。浮田和民は哲学者で、早稲田大学の教授で有名です。同志社の出身です。
原別荘(松籟荘)の奥さんと、奥さん同士が姉妹なのです。原安三郎とは、義兄弟です。原さんと浮田さんとは、早稲田仲間なんです。浮田別荘と松籟荘には、早稲田の偉い人が、しょっちゅう来ていた。夏にでしょうね。写真があります。文化資料館と福祉会館の所は、戦争中に千葉製作所が買いまして、戦後は母子寮でした。後に、福祉会館と文化資料館ができました。
<中村楼>
浮田別荘の南の一番高い所に、中村楼があった。茅ヶ崎で初めての洋館、白壁、白い柱、1伯2相の祝賀会もやりました。1人の伯爵、2人の大臣です。茅ヶ崎のような小さな町で、しかも隣り同士で、2人がいっぺんに入閣した。珍しい事です。
清浦大臣と菊池大臣で、明治34年6月です。第2次桂内閣に入閣したのですが、文部大臣と司法大臣ですね。別荘族が、お祝いをやったわけです。後にここは、戦後高橋誠一さんが買って、今の幼稚園を作りました。松林がいくらか残っています。
<土井利章> (注:丸番号98)
※別紙 系図参照
「ちょっと変わった町」の番号
「ちょっと変わった町」の番号
<徳大寺公弘> (注:丸番号69)
<氷室椿庭園>
(故三井不動産副社長 氷室捷爾氏が茅ヶ崎市へ寄贈)
<安東大将> (注:丸番号49)
この道をさらに西へ 100メートルぐらい先の左手(東海岸南3丁目2番地の北部)に安東貞美陸軍大将の別荘跡があります。石川県ではなく長野県ですが、木越家、柳田家と親類ですので少し説明しますと、長野県下伊那郡上郷村の安東家に幕末、欽一郎、為従(ためより)、貞美、武夫の4人の男子が生まれた。このうち次男為従は同郷の柳田家の養子となり、柳田直平(なおひら)と改名した。そして、順、貞、孝の3女をもうけた。順は理学博士第1号矢田部良吉夫人、貞は木越安綱夫人となり、孝が家に残って松岡国男を養子に迎えた。貞美が男爵陸軍大将となった。だから木越安綱、柳田国男のおじさんに当たります。この3家の関係は、『文化資料館だより』にややくわしく述べましたが、貞美は長野県士族、明治6年陸軍少尉に任官、明治26年歩兵中佐で陸軍戸山学校長、明治29年大佐で陸軍士官学校長、明治30年歩兵第6連隊長、明治31年(木越より半年後)少将、台湾守備混成第2旅団長、翌32年歩兵第19旅団長(京都)、日露戦争最中の明治38年中将に任ぜられ、姫路の第10師団長、そして明治39年2月1日姫路に凱旋した〔中将になったのは明治35年竹橋、柴野、明治37年木越、石本、明治38年原口、安東、明治39年福島の順だった〕。次いで明治40年9月21日男爵をもらい、明治43年第12師団長、明治45年朝鮮駐箚(さつ)軍司令官、大正4年大将となって待命。同年5月6代目の台湾総督、大正7年6月待命。昭和7年8月22日、数え年80で没した。
安東大将別荘跡には今、桑木、服部、広瀬(いずれも子孫)をはじめ約12世帯がある。現在市内には、安東男爵邸に行儀見習いに上がっていたという老婦人が多い。
<青山為太郎> (注:丸番号41)
<中山喜久松>
仁不古庵の門の前方、道路向かいに、これは庶民的な 100坪ぐらいの住宅があります。この表札(中山是男)は興銀行員ですが、この父が中山喜久松さんでした。時代はだいぶ新しくなりますが、やはり石川県人で、その関係でここに住んだのでしょう。興銀理事から、戦後初代公正取引委員長になりました。認証官です。公正取引委員会といえば、当時は財閥解体、経済の民主化政策の花形で、注目を浴びました。今はずいぶん違いますが。その初代委員長がわれわれの仲間から出たというので、大いに張り切ったものです。当時われわれが茅ヶ崎清和会というのをつくり、団十郎別荘跡訪問などをしましたが、喜久松氏はその一員でもありました。社会党内閣ができる時、大蔵大臣にすすめました。本人はちょっと当惑しましたが、“推されるなら……” ということでした。結果は他の興銀出身者が大蔵大臣になりました。そんな思い出がたくさんあり、私もこの家にたびたび来ました。是男さんはその長男で、やはり興銀に入ったわけです。なお、弟さんは日本開発銀行に入り、島津貴子さんの結婚の時、新郎の同僚として新聞に書かれました。この中山家が石川村の西端です。
<石川村>
これは、加賀藩出身者の村、前田百万石の人々の村、金沢出身者の別荘群、石川、富山両県人の村と言ってもよいのですが、私は語呂のぐあいで石川村と呼んでいます。
これは東海岸南4丁目2番、4丁目11番、2丁目8番、5丁目2番の所に、びっしりかたまっています。
これは東海岸南4丁目2番、4丁目11番、2丁目8番、5丁目2番の所に、びっしりかたまっています。
<瓜生外吉>
田島家の北隣は、本年亡くなった鈴木伝明が20年前位まで住んでいましたが、瓜生外吉男爵海軍大将の茅ヶ崎別荘はここだったと考えられます。瓜生外吉は大聖寺藩(石川県だが前田藩ではない)の出身。
わが国の近代造船業の発祥地でもあります。そのためか海軍に入り、明治33年に少将、明治37年に中将、大正元年に大将に進みました。その間、明治30年頃海軍軍令部第一局長、明治35年から翌36年まで常備艦隊司令官、日露戦争の時は第3艦隊司令長官=瓜生艦隊として有名。次いで竹敷要港部司令官、明治39年佐世保鎮守府司令長官、明治40年男爵、明治42年から大正元年まで横須賀鎮守府司令長官でありました。
わが国の近代造船業の発祥地でもあります。そのためか海軍に入り、明治33年に少将、明治37年に中将、大正元年に大将に進みました。その間、明治30年頃海軍軍令部第一局長、明治35年から翌36年まで常備艦隊司令官、日露戦争の時は第3艦隊司令長官=瓜生艦隊として有名。次いで竹敷要港部司令官、明治39年佐世保鎮守府司令長官、明治40年男爵、明治42年から大正元年まで横須賀鎮守府司令長官でありました。
<木越安綱>
ここがいわゆる「石川村」のドまんなかです。このまわり一帯が、みんな石川県出身者の別荘でした。瓜生大将がそうでした。瓜生大将はこの左手の今の鈴木さん、柏木さん、有吉さんのあたりとその南方だったわけですが、この右手の奥(北)が今、アパート(※手書き注記:斎藤さんですが、ここが)木越安綱男爵、陸軍中将、陸軍大臣の別荘でした。
木越安綱といえば、石川県出身、明治10年西南戦争の時陸軍少尉に任官、日清戦争後の明治31年3月少将に進み、同年10月台湾軍参謀長、明治33年軍務局長、明治34年2月歩兵第23旅団長、明治37年2月日露戦争が開始されるや、その第一線「韓国臨時派遣隊司令官」として京城(ソウル)に入城した。その間明治37年4月9日妻の妹が、柳田国男と結婚した。戦争の最中の10月後備第一師団長となった。次いで現地で第五師団長となり、明治38年12月27日第五師団長として広島に凱旋、翌39年7月改めて広島の第五師団長に補せられ、明治40年9月21日男爵をもらった。次いで明治44年9月第一師団長となっていたところで、大正元年12月陸軍大臣となりました。すなわち第三次桂内閣に入閣、次の第一次山本権兵衛内閣にも留任したのですが、このころ増師問題(18個師団を20個にふやすかどうかの問題)と陸相現役問題(陸軍大臣は現役でなくてもよいという問題)がおこり、木越男爵は政府と軍部の板ばさみになって、進退に窮し、大正2年6月辞任しました。以来、この別荘で悠々自適したのです。この別荘は明治40年代に、日露戦争後のボーナスで瓜生大将、そしてあとで述べる安東大将、福島大将、柴野、竹橋、南部、原口各中将、増田海軍少将、平山海軍大佐、石黒、土岐、中泉、平井の各軍医総監らとすべてこのあたりに、申し合せたように開設したのでした。それから木越安綱夫人貞さんは、あとで行きます柳田の娘で、柳田国男夫人孝さんの実姉です。なお、また中海岸4丁目に現存の木越進さんは安綱の第5子で3男です。

安東、木越、柳田の関係(系統図)
-
- 安東辰武 ─ 欽一郎
- 辰武の子:
-
- 武夫
- 貞美(陸軍大将、男爵、茅ヶ崎に別荘)
- 為従(ためより、初田家へ養子、のち柳田家嗣となり直平と改名。大審院判事、茅ヶ崎に別荘) ─ 順(矢田部良吉夫人、茅ヶ崎に別荘)、貞(木越安綱夫人、陸軍大臣・陸軍中将、茅ヶ崎に別荘)、孝(=松岡風男を養子に迎え、柳田国男となる)
-
- 補足:
-
- 板東俘虜収容所 所長:松岡風男(養子)らから慕われた。ドイツ人俘虜からドイツ語ができた。
- 専八、二郎、陸軍大佐 ─ 木越安綱に繋がる系譜
- 安東貞美は木越安綱、柳田国男のおじさん
-
<南 弘> (注:丸番号53)
<南弥太郎>
南弘別荘の北隣(東海岸南4丁目12-3のところ、今、南ヴィラ、南隆自邸、アトリエ道等がある)、これが弥太郎別荘だった。この嫁は房子さんといって、明治27〜30年に栃木県知事を務めた佐藤暢の娘であった。房子さんはくわしい病中日記を書いたのち、ひとり息子が3つ位の時に亡くなった。私もその日記を読んで強い感銘を受けた。その長男が現在の南隆氏(茅ヶ崎に初めて近代的なバー、マイアミを開業した人)である。
<田畠氏>
田中ガラス(池田邸跡の南端)と山中千代子さんの間で、右へ折れて北上するとすぐ左側に田畠邸があります。この祖父が石川県出身で、東京で印刷工場(=久栄印刷株式会社)を興して成功しました。その長男が2代目社長田畠久男さんで、私も親しくしてもらいましたが、昭和50年1月9日に急死しました。未亡人は長唄の名人です。現当主はその子一弥さん。
<飯沼一省>
さて、石川村へ引き返すことにしましょう。仁不古庵と中山さんの間から東のほうへ、竹橋邸、飯塚邸(柴野別荘跡)、斎藤邸(木越別荘跡)の南門を左手に、中山さん、柏木さんで左折すると、中西さん、その隣が飯沼一之さんです。これは飯沼一省がつくった屋敷です。この人は福島県出身ですが、南弘の女婿なので、岳父の別荘の真ん前に建てたわけです。明治25年生まれ、大正6年東大独法卒、静岡県志太郡長、同県理事官、内務省の神社局総務課長、都市計画課長、昭和10年ごろより埼玉、静岡、広島、神奈川の各県知事、神社局長、神祇院副総裁、内務次官、東京都長官を歴任、昭和22年4月退官した。その後も全国選挙管理委員会委員、中央災害対策協議委員、都市計画関係団体の会長等、内務官僚OBのナンバーワンである。現在93歳ぐらいのはずです。
この表札「飯沼一之」は次男で私も友人です。大正13年9月生まれ、東北大学を出て、NHKに入り、今はその幹部です。長男(一慶氏、大正9年11月生まれ)は日銀の幹部。
この表札「飯沼一之」は次男で私も友人です。大正13年9月生まれ、東北大学を出て、NHKに入り、今はその幹部です。長男(一慶氏、大正9年11月生まれ)は日銀の幹部。
<九鬼別荘> (注:丸番号37)
さて、飯沼家の東隣、金井家の角から北西方に広がる、南北 130メートル、東西90メートルにわたるこの広大な土地、これが九鬼別荘。ここの事実上の世帯主であった九鬼縫子さんが、3年ぐらい前に96歳かで市立病院で亡くなられてしばらくして、新聞に、分譲住宅地の広告が出ました。ですから、今や別荘跡地というべきでしょう。ただこの九鬼男爵家のことは、文化資料館にくわしいレポートを提出保存してありますから、今日は要領だけを述べますと、明治初年、兵庫三田の九鬼藩から貢進生として上京した九鬼隆一秀才は、やがて留学生の監督のため洋行したり、文部省と大学(東大の前身)の創設に尽力したり、文部少輔(次官のこと)、元老院議官、駐米大使、宮内省図書頭となり、明治22年5月帝国博物館総長となり(明治33年2月まで11年間)、以来美術、博物行政の最高指導者となり、東京、京都、奈良の帝室博物館を充実させ、このころ数年ごとに開催される各博覧会では、事務局長、審査委員長、会長などはほとんどこの人でした。だから私は茅ヶ崎にも博物館をつくりたいという話がもちあがって以来、その立地は最適なのがある。それはこの九鬼さんの屋敷だと力説しつづけたのでした。私に「もうすこし」金があったら、四の五の言わずに買い占めたのですが……。それはともかく、隆一は明治28年6月枢密顧問官(49人目)となり、明治29年6月男爵をもらった。枢密院随一のうるさ型で、原内閣等をなやませた。昭和6年8月18日、80歳で没した。
さて隆一の後継者は次男一造。この一造が、石川県出身の大実業家(大阪商船の創立者)で政友会の領袖中橋徳五郎のむすめ縫子(明治28年6月生まれ)を妻とし、大正5年7月隆一郎をもうけるのであるが、この縫子夫婦のために、徳五郎がその財力をもって、この広大な土地を購入、別荘をつくってやったと思われる。そしてその周辺に石川県人が、かたまったということのようだ。
一造は早死にしたので、昭和6年8月九鬼男爵家は孫の隆一郎が襲爵した。これが終戦まで男爵であった。しかし不幸にも病弱で、ながく転地の身となったので、以来縫子さんがひとりで、この広大な九鬼屋敷をまもることとなった。縫子さんは、周辺の石川県出身者たちに敬愛されていた。茅ヶ崎文化人クラブ名簿によると、九鬼縫子さんはお隣りの柏木正敏氏(毎日新聞印刷局)の夫人たつ子さんたちと共に、「絽刺工芸 国光会所属」でした。九鬼別荘が、ついに分散されるとは、惜しまれてなりません。
<瀬脇家・尾上家のこと> (注:丸番号38)
昔は大瀬、今は河合邸の西隣り、東西130、南北70メートルにわたる大きな屋敷が、昔の瀬脇別荘、今尾上邸です。さて、まだ徳川時代、手塚律蔵(別名瀬脇節蔵)という蘭学者がおりました。改名、改姓の多い人で手塚姓では他に謙蔵、雪航と称し、金刺好盛、同顕とも称した。瀬脇姓に改姓してからも光寿、律蔵、節蔵があり、晩年には瀬脇寿人といった。若いころ江戸坪井塾に学び、そこで大島高任(日本製鉄業の始祖)と知り合い、その後も長崎で交わり、オランダの『鋳造法』を共訳した。またベルギーのリエージュ製鉄所のことを翻訳した。
安政3年4月4日(1856年5月7日)に幕府が蕃書調所教官10名を任命した時、教授手伝(助教授)7人のうちに挙げられた。西周〔後の大学者〕はこの手塚律蔵にすすめられてイギリス学を開始したとのことです。
それから慶応3(1867)年には『野戦兵嚢』(前後編各5巻)を翻訳した。明治4(1871)年廃藩置県後、開成所教授を経て外務省に出仕し、ウラジオストック駐在となるが、明治11(1878)年病を得て帰国の途中、船中にて没した。
さて、瀬脇姓について手元にある限りの名簿などによると、瀬脇寿雅、寿人、寿次郎の3人がある。寿雅は前に述べた。千代子さんの父で、この瀬脇別荘の明治41年8月現在の当主で、当時40歳ぐらい。
尾上登太郎という人も、私はある仕事のために、この人の経歴をくわしく調べるはめになった。そのために、未亡人千代子さんにたびたび会いにこの家に参上したのでした。その尾上さんは奈良県吉野郡飯貝、いわゆる「一目千本」桜の近くの大山林地主で700年くらい同じ所に屋敷があるという旧家の生まれ。
<大瀬甚太郎>
平田さんの北、旧街道を越えた所の古風なつくりの門に「河合」の表札があり、広大な河合邸がありますが、これが「石川村」の世話役の河合辰太郎の子孫です。河合家一族のことはあとで述べるとして、この屋敷は辰太郎が同郷の先輩大瀬甚太郎から買ったものです。甚太郎は最初に述べた明治41年、13円60銭を寄付した8人の1人です。辰太郎によると東京高等師範(今の筑波大学)の教授であったそうです。一高同窓会名簿、学士院会員名簿等をあれこれめくってみますと、明治18年に東京大学予備門文科を卒業、坪井正五郎(理科)より4年後輩、広田精一(工科)より8年先輩です。同22年に東大を出て、文学博士になりました。そして高等師範(小石川茗荷谷)の先生になったのでしょう。それから10余年たった明治30年代末に、同じ一高卒の坪井、広田、それに瀬脇、進、伊藤ら、並びに軍人の南部、原口らとこの茅ヶ崎村の東南部に別荘を構え、明治41年に道路改修に協力したわけです。次いで大正の初めごろ、同じ石川県出身の実業家河合辰太郎にこの屋敷を譲った、ということになります。
<河合辰太郎> 大瀬のあと (注:丸番号81)
※一中通りに出たところで説明する。
<真崎の浜>
この突当たりの海岸が真崎の浜です。昔の茅ヶ崎八景の1つです。
八景とは
①鶴嶺の暮雪 ②鳥井戸の夕照 ③姥島の帰帆 ④殿山の秋月
⑤平島の落雁 ⑥柳島の青嵐 ⑦真崎の夜雨 ⑧龍前院の晩鐘
の8つです。
当時は海浜は広く、白く、海水浴にも適していました。例えば柳田国男の長男、ひとり息子の為正さんよりの最近の手紙によりますと、よしず張りの脱衣場ができたそうです。関東大震災より数年も前のことです。
八景とは
①鶴嶺の暮雪 ②鳥井戸の夕照 ③姥島の帰帆 ④殿山の秋月
⑤平島の落雁 ⑥柳島の青嵐 ⑦真崎の夜雨 ⑧龍前院の晩鐘
の8つです。
当時は海浜は広く、白く、海水浴にも適していました。例えば柳田国男の長男、ひとり息子の為正さんよりの最近の手紙によりますと、よしず張りの脱衣場ができたそうです。関東大震災より数年も前のことです。
茅ヶ崎八景
八景の遡源を探れば遠く中国の瀟湘八景にあるといわれ、日本では近江八景が一般に知られ、琵琶湖を中心とした恵まれた風光明媚な景勝は万葉の昔から詩歌に詠まれ歌われ、語り継がれてきた。近くは横浜市の金沢八景が知られ、その始めは徳川時代この地を訪れた中国の僧、心越がその美観に感銘し、漢詩に作詞した八つの景色が由来といわれている。
茅ヶ崎にも以前から市域の景勝を選んだ「茅ヶ崎八景」というものがある。いつ頃、設定されたか確かなことは不明だが、1908(明41)年に鶴嶺、松林、茅ヶ崎の旧三村が合併して、茅ヶ崎町の成立した以降と思われる。
ここには3つの例を参考として載せる。
茅ヶ崎にも以前から市域の景勝を選んだ「茅ヶ崎八景」というものがある。いつ頃、設定されたか確かなことは不明だが、1908(明41)年に鶴嶺、松林、茅ヶ崎の旧三村が合併して、茅ヶ崎町の成立した以降と思われる。
ここには3つの例を参考として載せる。
-
- (イ)1. 姥島帰帆 / 2. 日東海道松原 / 3. 第六天晩鐘 / 4. 高砂秋月 / 5. 鳥居戸の夕照 / 6. 柳島落雁 / 7. 鶴嶺暮雪 / 8. 南湖青嵐
- (ロ)1. 姥島の帰帆 / 2. 真崎の夜雨 / 3. 八雲の晩鐘 / 4. 高砂の秋月 / 5. 鳥井戸の夕照 / 6. 柳島の落雁 / 7. 鶴嶺の暮雪 / 8. 南湖の晴嵐
- (ハ)1. 姥島の帰帆 / 2. 真崎の夜雨 / 3. 龍前院の晩鐘 / 4. 殿山の秋月 / 5. 鳥井戸の夕照 / 6. 平島の落雁 / 7. 鶴嶺の暮雪 / 8. 柳島の青嵐
- ※「真崎」とは一中通りの突当たりの海岸のこと。
(米山 隆「八景の系譜から、茅ヶ崎八景」郷土ちがさき第69号、川添隆行「茅ヶ崎の別荘を歩いてみませんか(第3回)」ほかより)
<南部辰丙> (注:丸番号10)
河合邸から一中通り(むかしの停車場裏道路)を東へ越えた所、東海岸南5丁目2-50ないし68にわたる広大な屋敷、南北80、東西90メートル、これが明治41年8月の13円60銭組8人の1人南部辰丙中将別荘跡です。今でも大部分が南部佳英邸です。そして、この南部邸と当時大瀬別荘(今、河合邸)が、私の言う「石川村」の北端です。ということはこれからはるか北方、これから行きますが、松樹園、柳田別荘の所までは、ただ一面の畑だった。さて南部辰丙といえば、石川県出身で明治10年陸軍少尉に任官。いわば、木越、福島ら同期生です。どういうものか陸軍では明治10年任官組が最も多数のクラスメートを擁しておりました。辰丙は日露戦争の中の明治37年7月に少将に昇任(木越より6年、福島より4年後)、明治38年陸軍士官学校長、明治44年中将、下関要塞司令官、明治45年中将、憲兵司令官、大正4年2月仙台第2師団長、同5年8月待命、翌6年4月予備役、大正8年4月後備役、同12年4月退役です。
なお同家の男子の名前は、みなエトにちなんでつけられた。たとえば辰丙の長男は猪甲とか猪乙とかいったそうです。この長男も軍人だったとのことです。
現在の当主は、南部佳英氏です。終戦以来、周辺を若干(14戸ぐらいに)分譲しましたが、このように現存しています。
なお同家の男子の名前は、みなエトにちなんでつけられた。たとえば辰丙の長男は猪甲とか猪乙とかいったそうです。この長男も軍人だったとのことです。
現在の当主は、南部佳英氏です。終戦以来、周辺を若干(14戸ぐらいに)分譲しましたが、このように現存しています。
<駐在所>
河合邸と南部邸の間の一中通りを北へ。柳島・小和田線との十文字を過ぎ、左手の2〜3軒目、今のふじ美容室から大塚板金のあたり(東海岸北2丁目14-26ないし29)に東海岸駐在所がありました。大正の初めに河合辰太郎ら、この付近の別荘族が請願してつくった。昭和40年ごろ、柳島・小和田線ができた時、今の所(東海岸南2丁目11番地)に移転しました。
<櫟木幹雄> (注:丸番号91)
<坪井正五郎>
文久3(1863)年に江戸で生まれました。明治11(1878)年大学予備門に入学(義兄箕作元八の1年後輩)、人類学をめざし、明治17年東大理科を卒業。在学中モースの大森貝塚発見に刺激され、卒業後、渡英して人類学を研究、帰国後母校の教授となった。この間、明治17年東京人類学会を創立、『人類学雑誌』を創刊、のちその会長。人類学開拓者として著作多く、明治20年日本の石器時代の住民について、アイヌ説に反対しコロボックル説を唱えた。明治25年10月28日帝国大学理科大学において人類学の講座を担当した。主著に『人類学講義』『はにわ考』などがある。とにかくわが国人類学の鼻祖でした。
明治39年9月14日のこと、政府は当時わが国第一級の学者として、25名を帝国学士院会員に選んだが、正五郎はその一人であった。
正五郎夫人は箕作秋坪の娘、したがって菊池大麓、箕作元八の実妹で、名は直子といった。それで「正直夫婦」といわれたそうだ。「正直夫婦」の娘静子(せいこ)は牧野英一夫人である。そんなわけで、牧野博士は大正初年に、坪井の所有地の東北端を分けてもらって別荘を作るのである。
<牧野英一> (注:丸番号34)
東海岸南5丁目2番地中22ないし25号の約800坪、いま、高月、長館、石野、小林、関谷、宮原、竹田、荻原、中曽根の9戸がある所が、牧野英一邸でした。前に述べた「正直夫婦」の所有地だった所の一部=北東角に当たります。
明治11年岐阜県高山の公事宿(地方から代官所に訴訟などで出て来た者を宿泊させ、訴訟手続きなどを代書する)の明治初年の主人牧野伊平という人の子に英一、良三が生まれた。英一は刑法学者、良三は政治家になった。英一夫人は静子(せいこ)、良三夫人は静子(きよこ)といった。
英一は明治29年第一高等学校、明治32年東大仏法に入学、同36年卒業、母校の教授、法学博士となった。「刑法の牧野か牧野刑法か」といわれる。
大正2年岳父の死去の前後、この土地を分譲してもらって家を建てた。
昭和10年代には帝国大学における官等筆頭教授、学士院会員、住所は小石川大塚坂下であったが、定年退官後は、ここをもっぱら自宅とした。
昭和10年代には帝国大学における官等筆頭教授、学士院会員、住所は小石川大塚坂下であったが、定年退官後は、ここをもっぱら自宅とした。
終戦後、茅ヶ崎ペンクラブの会長格となり、昭和25年第9回文化勲章を受章、文化人クラブ会長、名誉市民第1号となった。
何度も言いますが、この牧野邸の東方と南方はずーっと原っぱと畑でした。今の長篠さんの家、石野さんと中曽根さんの間の門と郵便受けには、当時の面影が残っております。
<小橋一太> (注:丸番号75)
元牧野邸跡前を北へ、小橋邸の東側です。昔の正門、大きな屋根つき、今は使っていませんが。垣根はとげの鋭いヒイラギ(柊)、高さ1メートルくらいのと20センチたらずの二種がとりまいている。小さい方は「ネズミヨケ」「アリトオシ」などといいます。蟻しか通れない。まして泥棒は指も差し込めません。
小橋一太は熊本県の出身、東大英法科を明治31年に卒業(南弘らは2年先輩。美濃部達吉らが同級生。牧野英一らは5年後輩)。まず内務事務官、参事官を経て、明治43年衛生局長、大正2年地方局長、翌3年土木局長、大正7年4月内務次官水野練太郎が寺内内閣の内務大臣となったので、その後任に昇任した。次官は4年間、大正11年6月までつとめた。その間水野、床次(とこなみ)両内相に仕え、床次系となった。その間大正9年5月の総選挙に熊本県4区で与党政友会から初当選。大正13年1月、清浦内閣(非政党、超然内閣)の内閣書記官長に抜擢された。政友会は清浦内閣を支持するかどうかで大分裂、床次、中橋、元田、山本らが与党政友本党を作った。政府は1月31日衆議院を解散、小橋は当然与党から2度目の当選を果たしたが、与党は大敗、内閣は総辞職し、加藤高明護憲3派(憲政、政友、革新)内閣となった。この頃、ここに別荘を置いたわけである。
昭和4年7月民政党浜口内閣が成立、小橋は文部大臣として初めて入閣した。しかし、まもなく越後、山手両私鉄疑獄事件が問題化し、11月29日辞表を提出した。12月18日召喚、昭和5年3月7日起訴、12月20日懲役10か月の判決があり、昭和6年8月10日控訴院で無罪となった。
2・26事件後の近衛内閣の推薦で、昭和12年6月28日東京市長(永田秀次郎の後任)に就任した。昭和14年4月11日辞表を提出、10月2日没した。
このような実力者が、この庭園(3千坪)を作りあげたわけです。池を真ん中にして、大中小の樹木がびっしり、この外側に町や家並みがあることなど忘れてしまうほどです。池には北欧産などをまじえて色とりどりの鯉が数百尾、奥さんが手をたたくとザーッと集まる。ただし、水道料と消毒が大変だそうです。背後の本屋は、30畳ぐらいの大座敷をふくめて、横浜の三渓園を思わすような大書院造り。なんでも茅ヶ崎最初の銅板葺きだったともいわわれます。御内帑金(ごないどきん)で作ったと一太さんが言っていたとか。
このような実力者が、この庭園(3千坪)を作りあげたわけです。池を真ん中にして、大中小の樹木がびっしり、この外側に町や家並みがあることなど忘れてしまうほどです。池には北欧産などをまじえて色とりどりの鯉が数百尾、奥さんが手をたたくとザーッと集まる。ただし、水道料と消毒が大変だそうです。背後の本屋は、30畳ぐらいの大座敷をふくめて、横浜の三渓園を思わすような大書院造り。なんでも茅ヶ崎最初の銅板葺きだったともいわわれます。御内帑金(ごないどきん)で作ったと一太さんが言っていたとか。
当主一雄さんは一太の長男で、85歳ぐらいです。交通安全友の会本部、神奈川県特別機動団を育成して来ました。そのため、このように多数の機動自動車が絶えず出入りしているわけです。市内の大きな庭園が次々と姿を消す中で、この小橋邸は今や茅ヶ崎の名所となりつつあります。
<鉄砲道と柳島・小和田線>
この2つを混同しないよう注意してください。桜井さん、小橋(東男)さんの所から、15メートル北西へ、そこで2つが合流します。この鋭角三角形に佐々木卯之助の碑が立っている。ここから西の方は、中海岸までほぼ同じ線上ですが、東の方はまるで違います。前者は何度もカーブしているが、後者は直線で、東海岸北と松が丘を貫いています。そのため柳島・小和田線を鉄砲道と呼んだりすると、種々混乱が起こります。これから行きます仁井田さん、中泉さん、田中さん、五十嵐さんは、鉄砲道の北側(東海岸北)で、柳島・小和田線の南側、あるいは両側に当たります。新住居表示が鉄砲道を境界として決まった後で、柳島・小和田線ができたので、そんなややこしいことになった次第。
注記:佐々木卯之助のところから ──「鉄砲道の旧道(本来の鉄砲道)」 小橋、仁井田、中泉に沿って東へ続く。
<イサム・ノグチ> (注:丸番号29)
イサム・ノグチは、ヨネ・ノグチとアメリカの作家レオニー・ギルモアを両親として、1904年ロサンゼルスに生まれた。日本で幼少年期をすごしたあと、アメリカで学び、のちにパリでロダン以後の現代彫刻に新しい地平(水準)をひらいたコンスタンチン・ブランクーシに師事した。
イサムは早くから彫刻を庭と関連させて制作した。日本の「遊び山」「枯山水」を念頭において、パリのユネスコ本部の庭園(1956〜58)、チェース・マンハッタン銀行プラザの庭(1961〜64)などを設計しており、1960年から始まる、「ランドスケープ・テーブル(風景卓子?)」の連作石彫へと集約している。
<石黒忠恵(ただのり)>
仁井田邸は、鉄砲道の北方から柳島・小和田線北側にまで及ぶ、南北110メートル、東西 150メートル、約5千坪の広さです。これは最初、石黒忠悳(ただのり)が買い付けたものです。
例の明治41年8月の寄付募集予定者11名中8人は13円60銭ずつ集金済みであるが、南部頼精、平井、石黒の3名には金額の記入がない。この3人は土地だけで、まだ家が建っていないなどの理由があったものでしょう。このうち南部と平井(政遒)は、やがて別荘を建てましたが、石黒は結局、家を作らないまま、この土地を仁井田益太郎に譲渡したということです。木村昇(共同通信論説委員、東海岸、故人)が、石黒忠篤(忠恵の長男)の伝記を書く時に、そのことがわかりました。それにしても、軍医総監の大物が、ここに目を着けたことが、この近くに中泉、平井、甲野など、軍医とか宮内省侍医とかが群がったきっかけだったか、とも思われます。
忠悳は弘化2(1845)年に福島県で生まれたが、新潟県人ということになっている。江戸に出て医学所に学び、須田経哲(中海岸)にも学びました。上野の戦争では彰義隊も官軍も区別なく治療したなど、明治の諸戦役に軍医として活躍。陸軍一等軍医正となり、明治12年3月東京大学医学部の開校に際して、その総理心得、次いで総理となった。次いで陸軍軍医監、陸軍省医務局次官、明治21年陸軍軍医学校長、明治23年軍医総監、陸軍省医務局長、明治28年8月20日日清戦争第2回功行賞で坪井航三らと男爵。明治30年新制度の初代陸軍軍医総監。同年休職、明治34年予備役、翌35年貴族院議員。大正9年2月枢密顧問官(109代)、同年9月渋沢栄一と2人で子爵という大物。その間、西洋医学の普及、軍医制度、医事制度の創設に抜群の尽力をした。また中央衛生会会長、日赤社長も歴任した。
種々話題の多い人でした。明治28年3月、下関で日清講和談判の最中の24日、清国全権辨理大臣李鴻章が第4回会談を終わり退出の途中、旅寓引接寺門前で、凶漢小山豊太郎(録之助)にピストルで狙撃されて負傷したので政府は大あわて、日本側の全権辨理大臣陸奥宗光は、軍医総監石黒忠恵と外科医佐藤進(順天堂)を伴って見舞い、石黒、佐藤が手術をおこなったのでした。
昭和4年12月、久保田護、岡田哲介と3人で議定官(皇室財政最高評議員)。昭和16年、97歳で亡くなりました。
<仁井田益太郎> ( 丸番号34)
訴訟法の大家でした。福島県出身、明治元年生まれ。明治20年第一高等中学校に入学、明治23年東大独法科に入学、明治26年卒業、法学博士。母校の教授となった。その間、大正8年7月から2年間法学部長。貴族院議員にも勅選された。終戦直後に死亡。今のこの表札の秀穂氏は長男。最高裁調査官でした。その長男益雄氏は共同通信外信部のベテラン。文化人クラブ会員。例の柳島・小和田線(2車線)が仁井田屋敷を東西に貫通しました。そのため北端部の約200坪は、その北側に離れ島(東海岸北5丁目16-61)のようになり、そこには今、清光不動産、洋品トントン、ワコムビル等が建ち、仁井田事務所、ギャラリー瀬洞奈、アトリエ湘南、ブティック青山、益友社クリニック、鈴木歯科、綜合住販など仁井田家ゆかりのオフィス等があります。
なお、大通りの南側の本屋の東方部約 500坪が工事中ですが、これは茅ヶ崎市の海岸地区(中海岸、東海岸)コミュニティー・センター(コミセン)です。
<仁井田隆> (付録)
「益太郎の妹の子です。私から見ると父秀穂のいとこです。またこの家に長期滞在したことはありません」(益雄)が、やはりわが国が誇る学者のひとりでした。
昭和9年、『唐令拾遺』によって帝国学士院賞を受章した〔同時に坪井誠太郎は火成岩の成因に関する研究で受章した〕。
昭和41年1月1日朝日文化賞をおくられた。中国法制史研究が評価されたのであった。この時は「東大名誉教授、62歳、ロンドン滞在中で、礼子夫人(54)、姪の田中淳子さん(24)といっしょに、静養の日々をおくっている」(『文化の姿』52号)。「明治37年1月1日、仙台市に生まれた。松本高校をへて、昭和3年東大法学部を卒業、中田薫博士(学士院会員)のもとで、中国の法と社会と歴史、特に中国法制史の研究が始まった。最初に手をつけたのが、『東洋法制史の枢軸』とまでいわわれる唐の法令格式の中の令であった。そして唐の原文千数百条のうち、その約半数を復元『唐令拾遺』としてまとめた。」昭和9年、この業績に前記学士院恩賜賞が贈られたのである。
「昭和12年法学博士、17年東大教授。仁井田隆の学問が、大きく展開するきっかけとなったのは、末広厳太郎(中海岸)の指導によって、戦時下の中国で行なわれた農村慣行調査への参加だった。『中国の社会とギルド』『中国の農村家族』『中国社会の法と倫理』など、次々とまとめられた。そして30余年の集大成ともいうべき大著『中国法制史研究』(全4巻)の第1巻が昭和34年に出た。第4巻は定年を迎えた39年春であった。これによって、中国の法制史がはじめて誕生したとさえ言われる。欧米はもとより中国の学会からも高く評価されている」(1966年2月11日『文化の姿』52号)。
「1965年の9月ロンドン大学から招かれ、同大学の東洋、アフリカ研究所で1年間講義するためロンドンに着いた。以来、大英博物館に通い続けて、『敦煌文書』ととりくんできた。1966年春にはパリ、夏にはレニングラードを訪ねて、別の敦煌文書を調べるのだ、と言っていた」(同)。そして「英国の文化勲章」のようなものを贈られた。昭和42年頃ロンドンで客死した。
<中泉 正> <松ヶ丘緑地> (注:丸番号39)
鉄砲道とラチエン通りの交差点の北東角(松が丘1丁目11番の全部)の 100メートル平方、約3千坪の、今でも原始林のような、椎、樫、楠、榎等のほか、池あり谷あり、大名竹の群生などもある区画が有名な中泉別荘です。この北部、東部の周辺は、数十戸の新住宅地で、新自動車道も作られ、どこまでが境界だったか今では見当もつきませんが、昔は5千坪ぐらいはあったように思われます。いずれにしても明治39年頃以来のこのあたりの代表的な別荘でした。明治41年8月の今の一中通りの改修に際して、150円の資金不足を補うべく、まず沿線の茅ヶ崎村の8人が、13円60銭ずつ茅ヶ崎村長代理青木磯吉へ寄付したのに続いて、9月下旬、松林村側の8人が各6円を村長代理太田文次郎に寄付したが、その筆頭はほかでもありません、中泉正でした。
正は美濃国郡上藩の士族。明治7年軍医に任官、累進して一等軍医正。明治30年陸軍軍医監(少将に相当)となりました。(石黒よりは7年後輩)、そして翌31年休職、明治39年〜40年頃、日露戦争後のボーナスでこの別荘を作ったわけです。
正は弘化2(1847)年8月13日生まれ。文久2(1861)年に郷里八幡(他の資料に奈良県郡山とあるは誤り)を出て、江戸に至り、蘭学医学を修め、いったん故郷へ帰ったが、慶応元年4月ふたたび上京して、幕府の西洋医学所(頭取松本良順)に学んだ。この同窓に、石黒忠悳(別出)、大沢謙二、長谷川泰などがいた。もともとこの医学所は、伊東玄朴、戸塚静海、大槻俊斎、坪井信道(別出)ら、新しい西洋医学を学んだ長崎留学組の主唱で設立された種痘所(1858年創立)が始まりで、文久元年西洋医学所と改称され、そこへ石黒、中泉らが入学し、さらに医学校、大学東校、東京大学医科大学、東大医学部と変遷したもの。
正は明治元年には医学所句読師(助教授を意味する)並びに付属病院当直助医師に任ぜられた。明治2年10月浪速仮病院(大阪医学校=校長緒方惟準)が創設されると、その塾幹を命ぜられた。やがてこれは廃校となり、正は明治5年帰京を命ぜられ、東京医学校監事分課というのを申し付けられた。明治7年陸軍に入り、明治10年西南戦争で大阪陸軍臨時病院が設立され、これに二等軍医正として配属された。このときの院長は佐藤進、副長は局内利国(惟準の妹婿)、一等軍医正が石黒と横井信之(水尾源太郎の岳父)で、二等軍医正が中泉であったわけだ。
正はそれより累進して、明治20年一等軍医正、第2師団軍医部長、日清役をへて明治30年9月28日軍医監に進んだ。陸軍軍医監の仕官順は、①松本順、②林紀、③橋本綱常、④石黒忠悳、⑤石坂惟寛、⑥佐藤進、⑦土岐頼徳(別記)、⑧足立寛で、中泉正は9代目であった。
中泉正は翌31年10月1日休職となった。それから数年後、ここに別荘をひらいたわけである。明治41年9月に道路改修費を小和田側の8人も6円ずつ寄付することになったとき、その筆頭署名人となったことは、別に述べたとおりである。
それから3年足らずの明治44年4月1日付けで、陸軍を退役し、それからまもない7月20日卒した。数え年66歳であった。
行徳は旧姓は後藤朝五郎といったようですが、明治24年第一高等学校を卒業して、東大医学部に進み、正の養嗣子となり、明治29年に卒業、医博となり、東京で中泉眼科医院を経営しました。大震災でこの茅ヶ崎町の別荘が全潰した時の当主はこの行徳でした。終戦の頃没しました。
正徳は行徳の長男として、明治28年4月に京橋区で生まれました。ということは、父はまだ大学生だったわけです。大正8年に東大医学部の放射線科を卒業し、レントゲンの権威になり、医博になったのはもちろん、母校東大医学部の教授兼厚生省技師(放射線行政の厚生技官)となりました。
中泉別荘もまた、仁井田や東方の田中、五十嵐などと同じく、屋敷の北部を例の柳島・小和田線でちょん切られました。